私は今まで、魔法で敵と闘うドラクエのようなゲームや、銃で敵と闘うバイオハザードのようなゲームをしてきましたが、今回は剣で敵を斬って闘うゲームを購入してプレイしました。なお今回は常用漢字ではない「斬る」という字を「敵を殺傷するために剣などの刃物で切りつける」という意味で使用します。
プレステ2の「あずみ」。時代劇マンガとして有名ですが、原作の初めの部分をアクションゲームにしたもので、剣で敵と闘っていくゲームです。食堂などに連載誌がおいてあったときに飛び飛びで読んで、存在は知ってたものの、主人公が何のために闘うのか、物語の舞台はいつの時代かなど多くは謎でした。このゲームと攻略本の解説のおかげで、それを知ることができました。簡単に言うと、江戸時代初期が舞台で、二度と戦争が起こらず社会がずっと平和であるために、戦や反乱を企てる勢力を見つけて、大きな戦争になる前に密かに叩き潰すのが使命です(ゲームの原作になった初期の話。このあとは旅をしてる様子が見られる)。同じ方法で私たちの社会を平和に保つため闘ってる人々がいるかもしれませんが、それは触れないでおきます。隠密は一般人に知られないからこそ隠密、知られたらアイデンティティの消失です。
ここで注目したいのは、同じプレステ2のアクションゲームなのに、銃をつかうバイオハザード4が「17歳以上」対象なのに、剣で斬って闘うあずみが「18歳以上」対象なのです。たった1歳の差と思ってはいけません。18歳未満では、自動車の運転もできずクレジットカードも保有できません。資格の取得にも制限があり、一部の責任ある仕事や危険な作業も18歳以上で許可されるものが多くあります。エッチな本を合法で買って読むのも18歳にならないと出来ません。だからこそ清純派のイメージのために一部の声優らは「永遠の17歳」を宣言しています。
これについては「光線で怪獣を倒すウルトラマンが海外でも人気なのに対し、切断するシーンが多いウルトラセブンは思ったほどではなかった」というのをどこかで読んだ記憶があり(念のためネット検索したが見つからなかったので、立ち読みした本に書いてあった可能性もある。さらに外国では怪獣が受けたのでありセブンは宇宙人が敵だから、という説も)、戦争中の残虐行為の追及でも、銃で殺害したものより剣で斬り殺したものを、野蛮だとして厳しく追求されたという話も聞いています。なぜ銃や光線を撃って殺すのより刃物で斬って殺すのが残酷なのでしょうか。
これは極楽浄土に対する考えの違いかもしれません。日本人は死後は地上とはちがう場所にある楽園に「行く」のであり、現世の肉体が切られても関係ありません。しかし欧米人の考えでは、最終的には救世主が地上に「来る」ことで地上に楽園が作られ、死者たちは地上によみがえるというのです。ならば、よみがえったときに肉体が切られてバラバラでは困ります。そのため欧米人は身体を切られることに「死んだ後まで不自由を強いられる」という嫌悪感があり、残虐だと思うのでしょう。私も死んだ後にまで影響を与える行為は嫌いであり、そのため死後の世界が争いの場になったり、亡くなった人に仕事をさせるなどで死んだ後まで苦労させる話は嫌いです。
鉄腕アトムの原作マンガでも、体がバラバラになるシーンで欧米からの苦情や抗議は大変なものだったそうです。機械が壊れてバラバラになるシーンは外国のマンガにもあり「アトムもロボットではないか」といっても、人間の姿をしている以上は容赦なく非難されたとか。もっとも手塚氏が言うように、そのあと劇画の世界では忍者が斬り合いをするなど、残酷な描写がたくさん出てきます。私もサラリーマン向け雑誌の時代劇とかは、肉体を欠損するシーンがあるものは、読みたくないと思うことがありますね。多少デフォルメしてれば少しは大丈夫だけど、社会人向けの劇画はリアルすぎるから(『あずみ』がギリギリかな)。
そんなわけで、肉体の損傷がピンポイント的で形がとどめられることの多い銃殺より、肉体を損傷する面積が多く欠損を伴うことが多い斬殺がより残酷と判断され、ボーダーラインである17歳と18歳の壁でへだてられることになったのでしょう。「それは情緒的だ、イメージで判断するな」という人々もいるので、せっかくなので私のイメージと情緒を書いておきます。欠損については腕や足を失うより、視力や聴力などを失うほうが大変だと思うので、乙武氏よりヘレン・ケラーのほうが苦労したと思ってます。それと暴力の手段としては、銃や剣よりも、拳で殴る場面のほうが身近にある分だけ嫌悪感が強いです。銃や剣は日本国内の日常生活ではあまり縁がないけど、殴る蹴るの暴力は街のどこかで今も行われていて、自分がいつ犠牲者になるか分からないし。格闘技の服装・リングなどの公認設備・審判・大勢の観客(証人・立会人を兼ねて)がそろって、法人として合法的に認定された団体が主催する試合(プロレス、ボクシングなど)なら見ることもありますが、市民の生活の場でおこなうルールなしのケンカの場合は、たとえ学生のでも嫌いです。ましてや片方が無抵抗で、もう片方が一方的に暴力を振るう場合は「犯罪」とみなします。D.C.ⅡP.S.でななかや小恋のルートが好きではないのも、渉が義之を殴ったことが原因。あれさえなきゃいい話だったのに。
なおドラクエなどで主人公が剣で闘っても問題にならない(プレステ2の「8」は完全な全年齢、よい子にもおすすめ)のは、攻撃されても出血すらしないからでしょう。テレビの時代劇でも人を切っても出血しません。「うそつき」と言わないでください。残酷な現実よりも優しい幻想が必要なこともあります。それを歪んだ幻想だというなら、それをぶち殺そうとする行為に抵抗します。拳を振るって殴るのは暴力ですし。
暴力の規制は必要、でもエロやグロに比べてあいまいな部分が多いのが現状。なら見た人に聞いて判断するのがいいでしょう。そこで私が見た、ゲーム「あずみ」ですが(原作はそうとは限らないので熟読した人に聞いてください)全年齢には出来ないけど、バイオとおなじ17歳以上でもよかったのではないか、と思いました。ご参考までに。
先日のニュースで、観光庁が日本のアニメを海外に売り込んで、アニメの舞台を訪れる「聖地巡礼」を案内するサイトを外部に作った、といっていました。検索に苦労しましたがようやく見ることができました。これについては賛否両論あるようですが、私は賛成です。
アニメやゲームなどは、日本が世界に誇る文化です。そして世界史上の大国はいずれも、すぐれた文化を持っていました。古代ギリシャは数学や哲学に美術、さらに一般市民が政治に参加しスポーツ競技会(現在のオリンピックにつながるもの)もありました。古代ローマは大浴場や格闘場での娯楽、ドイツの音楽と科学、フランスは美術やファッションのほかメートルを生み出しました。イギリスは立憲君主制の本家であり、産業の発展やそれに起因する労働者の権利なども他国に先立ち、音楽も20世紀になってもビートルズなどを生み出し、文学もシェークスピアからハリーポッターまで時代を問わず読まれています。アメリカもテーマパークを生み出しハリウッド映画などで人々を魅了してきました。
それに対して、昔の日本は悲惨でした。80年代に書かれた文章を読んでみましょう。
アメリカが世界に君臨していられるのは、軍事力や、経済力や、『自由主義・民主主義』などというイデオロギーのためばかりではない。それ以上に、ロックや、ハリウッド映画というエンターテインメント文化を持っているからなのだ。原子力空母エンタープライズよりも、マリリン・モンローの方が、ジェット戦闘機F15よりも、エルビス・プレスリーのほうが、ずっと高い戦果をあげているのである。
(中略)
日本を見ると、これもまた、エンターテインメント文化力の貧弱な国である。中国やソ連を笑えるような国ではない。日本人は、車や家電製品で世界を征服した気になっておるらしいが、文化的には征服されっぱなしであることをもう少し自覚した方がよかろう。
デーモン小暮閣下著、ネスコ発行・文芸春秋発売『我は求め訴えたり』1987年3月30日発行
このあと日本が文化力を持てない原因として、世間体を気にして自分が良いと思うものを発表しづらい社会体制をあげ、さらに本来は自由な音楽であったロックが、海外で作られた手本を模倣するだけで革新的なことをすると叩かれる保守的な音楽になっていると説き、そのような社会を変革すべきと説いていました。先日、プレステ2の「あずみ」について話しましたが、その原作になったコミックス1巻から10巻の最初までを読みました。そのなかで、あずみと周囲の人々が、江戸幕府を作った徳川家康を「太平の世を作ると言いながら多くの人々を殺しているではないか」と批判しています。それについて私が思ったことを話してみます。
たしかに家康は天下を取るまでに多くの戦争をおこない、幕府成立後も「大坂冬の陣・夏の陣」と呼ばれる戦争を起こして多くの命を奪っています。しかしそれによって、250年もの平和な時代が続いたのです。それだけでなく、あずみたちが暗殺した大名・武将たちや、あずみたちの作戦で壊滅した反乱を企てていた軍団を放っておいたら、本格的な戦争が起こったはず。それによって町や村が破壊され、罪のない多くの人々が死んだはず。あずみも孤児だったのを師匠(劇中では爺と呼ばれる)に拾われた身ですが、親が殺されれば孤児も発生します。家康の決断やあずみたちの作戦決行がなければ、死者は10倍以上、負傷者・家を焼かれる人・孤児になる子供などの犠牲者は100倍以上になったかもしれません。
大坂夏の陣では、あずみは秀頼を逃亡させるよう頼まれます。田舎で名もない平民として暮らせばいい、とあずみは考えるのですが、生まれてからずっと元天下人の子としてぜいたくに暮らしてきた秀頼に、農民としてつつましい暮らしなどできるとは思えません。それに父である秀吉が、家康と違い、天下を取ったあと太平の世を作ろうとせず、それどころか明を攻めようとして朝鮮半島で侵略戦争をしたことを考えると、やはり徳川の天下になってよかった、そして再び豊臣の政権に戻る可能性を排除しておくことは適切だった、と思うのです。
あずみが殺害した人々には、戦乱の世が終わって失業した浪人や野武士らがいましたが、彼らは太平の世で法に従って生きるつもりなどありませんでした。ある者らは反乱に加わり人を殺し続けるつもりであり、またある者は強盗の集団をつくって村を襲い略奪・殺害・強姦をしました。奴らを全滅させなくては太平の世は来ないのです。大名たちとて、戦闘員あがりの者達は戦争は出来ても平時の政治は苦手なものもいたでしょう。そんな奴らに統治されては民衆も迷惑です。新しい社会に適応できずに「オレは強かったんだ」と過去の栄光にすがって生きる者達は、社会への影響が少ない場所に隔離すべきとランボーのときに話しました。なのに抵抗して、自分達が社会の中心に居続けようとするなら、平和な社会を拒み戦い続ける(他人を死傷させ続ける)というのなら、平和を守るために奴らを倒さねばならないのです。
私が世話になった先生で、バツグンの記憶力を誇り「歩く図書館」(知識だけでなく、それについてどの本の何ページ辺りに記述があるかなどもそらで答えていた)とでもいうべき人がいましたが、インターネットの普及で誰もが調べものが出来るようになると、自分の時代は終わったと悟り隠居し、やがてひっそりと亡くなりました。歴史の変わり目では、今まで重要人物だった人が用無しになることはよくあることで、引き際を見極めることも大切なのです。
しかし、家康も劇中ではあずみに殺されてしまいます(史実では病死。20世紀に信じられた天ぷら説は今は否定されている)。その理由は、太平の世の基盤固めはほぼ完了し、家康がいなくなっても大丈夫と判断されたので、ならば家康にも多くの人を殺したこと・あずみたちにそれを実行させたことの責任をとらせてもいいだろうとの判断でした。しかし天下泰平の基盤を作るためにあえて戦争をした家康が裁かれ、その屍の上に2代目以降が汚れを背負わずに幸せで居続けることを考えると、王朝にしろ資産家の一族にしろ「初代」というのは損な役回り、つまらないものだ、と思いました。資産家だって初代は他人を出し抜き、なかにはひきょうな手段で財産と資本を作った者もいたでしょう。それゆえ初代は悪口を言われ、二代目以降は賞賛だけを浴びてすくすくと育ちます。世間でも人をほめるときには「OOの王子様」「OOプリンセス」であり、王様や女王様のイメージはよくありません。王様は悪者、王子様はカッコイイ存在。自力で何かをして大成した初代がそのための犠牲によって批判されるのなら、親の世代に恵まれない人は憎まれ役になるしかないのでしょうか。それとも不幸な名もなき凡人で一生すごせと言うのか?
そう考えると、「あずみ」の人物は誰も救われませんね。時代の分かれ目で用無しになった旧勢力も、みずから太平の世を作ったのに戦争責任者として殺された家康も、そしてそれを実行するために殺人をしてきたあずみ自身も。ゲーム攻略本でいう「あだ花」だったのです。誰も本当の幸せをつかんでない。あえていうなら作品のヒットで大もうけした作者だけが勝ち組。読者である私たちさえ作者の金もうけのためのあだ花、そう考えると空しいです、この物語は。誰か一人くらい幸せになってもいいのに。
なお「そこまでして太平の世とは名ばかりの身分社会をつくる必要があったのか」といわれれば、必要だったと私は答えます。日本人が江戸期に独自の文化を育てるには、平和な時代が必要だったし、そのなかで身分社会の不条理に気付く必要があった。しかし戦乱の世が続いていたらそんな余裕はないし、そんな状態が続いたまま黒船来航があったら。イギリスがインドを征服したときのように大名の争いを利用して日本を征服し、魅力ある文化を持たない国は保護する価値ないとして完全にアメリカに征服されたかも。マルクスは社会の発展には段階を経る必要があり、社会主義になる前に資本主義を経験する必要があると述べましたが(それがなかったためソ連は失敗したといわれることも)、ならば戦国の分裂した社会からいきなり明治以降の中央集権社会になるのは無理であり、平和で封建的な江戸時代は日本にとって必要だったのです。そのために、あずみは影で戦争の芽を絶つ必要があったのです。
なお「あずみ」の原作をこれから読もうとするかたへ。これは青年誌に連載されたため少年誌や少女誌より描写が残酷で、人を斬ったときに出血を伴って手足が吹き飛んだり、野武士の集団が村を襲撃したときには村の女性をレイプする場面が明確に描かれています。そのような描写が苦手な人にはおすすめできません。逆にゲームでは、野武士を倒すステージでは相手の素性を考慮して殺害をためらう必要は全くなく「悪党は成敗すべき」と思い切って殺しまくれますね。ゲームはクリア済みのステージを再プレイすることも出来るので、正義の味方になりきって無法者の野武士を成敗するのもいいでしょう。
先日の「あずみ」の話をしましたが、今回もマンガの話題です。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、通称『こち亀』についてです。
出会いは店で順番を待ってるときに読んだジャンプでした。私はコミックスは順番には買わず、表紙の絵や雰囲気を見て面白そうなものから順番に買っていくことが多く、バラバラに買っていきました。そのうち他のことに興味が移って読むのをやめてしまいましたが、派出所(現在は「交番」が正式になりましたが、両津さんたちがいた亀有公園前派出所を指す意味で「派出所」と呼びます)を中心に警察官の日常を描いた初期がとても好きでした。
みんなが派出所に集まり、ときには事件が起こるけど基本的には日常的な出来事が続いていく。しかし警察という一般人とはちがう部分もあるので、たまに専門用語や独特の活動もあります。この「専門的活動をする人たちの日常」の話は、21世紀になってから大人気になった『けいおん!』や『GA-芸術家アートデザインクラス-』に共通するものだったのです。
『けいおん!』は楽器の演奏を普段しない人にとって、『GA』は美術に興味がない人(高校では音楽などとの選択になるのでやらない人も多い)にとって、日常の話でありながら専門分野を垣間見られる話でもありました。ちびまる子ちゃんやサザエさんのような完全な日常だと飽きる人もいるし、かといって藤子Fのように日常の中に入ってくるものが未来のロボットや宇宙人など非現実すぎると入り込めない人もいます。そこで現実にあるけど実体験した人が少ないものを使うことで、ハレの日のイベントを作ることができるのです。こち亀の場合は警察特有のエピソードを挿入することで成立するのです。
非日常としては、事件も起こります。キャラたちは出動して事件を解決しますが、これがヒーローもののようでカッコイイのです。これがカタルシスになります。しかも拳銃や手錠などの装備は、普段それを見慣れていない人にとっては、ヒーローの秘密武器も同然です。たまに銃やバイクについての解説もあり、これはよく分かりませんでしたが逆にそれがSFっぽかったのかも。
両津さんたちは派出所に集まりますが、そこには警察の備品もあり、食べ物も遊び道具もあり、仮眠用の和室も台所もあります。あの話の派出所はキャラたちの基地のようでした。一般人も訪れるので秘密基地とはいえませんが、主人公達が活動のベースを持ってるのってカッコイイですよね。
交番が一般市民にオープンな雰囲気なら、刑事ドラマの場合は一般人が入らない、本当の秘密基地であり、しかも日常場面がなく犯人逮捕に特化したもの。これでは軍隊と変わらないのかも。かつて鬼刑事だった定年間近の老警官が派出所に来た話では、人を疑い犯人を捕まえるだけの刑事ではなく、地域住民とふれあい親しまれる交番勤務を本当はしたかったと言ってました。実際には街中で起こる事件の最前線であり、そんなに甘いものではないと両津さんも言うのですが、やはり刑事モノに比べると交番を舞台にしたほうがいいですね。
ちなみに刑事ドラマでは毎週事件が起きてますが(大真面目に考えるとぶっそうな街ですよね。住みたくないかも)、『こち亀』ではどのくらいの割合で事件が起きてるか見てみましょう
コミックスをランダムに3冊選んで調べたところ、
30話中、解決した事件が8件(泥棒2件、交通違反4件、脅迫1件、ひったくり1件)
未解決のままオチになった回が2話
管轄外で起きたものを鎮圧したのが2件。
(交通違反はすべて白バイ隊員の本田が登場後。逮捕に協力したり派出所で事情聴取をした)
非番(休日)の話もあるし、微調整しようとしたらきりがないので、単純に「30週の間に12回事件が起きた」と考えると
「2週間または3週間に1回の割合で、交通違反を含めた事件が起きている」ということ。これならばまあまあ平和でしょうか。
なお30話中、ピストルを撃ったのは7回でしたが、それには暴発1回、訓練1回、障害物や相手の武器を破壊が2回含まれています。
思い出に残る話もたくさんあり、いろいろと影響を受けた作品でした。
ディノクライシスの攻略本では、リックがいろいろしゃべるページがありますが、2009年の話にしては話題が古いですね。ダースモールとか「まるであの映画(ジュラシックパーク)みたいだ」とか。もっとも発売されたのが99年であり、2009年と設定されたのは2作目ですので(2が2010年の話で、その1年前の設定のため)仕方ないことなのですが、そのような外部要因にたよらずに理由を検証してみよう、というのが今回の試みです。
リックは政府の情報機関(2でS.O.R.T.という名称と判明する)で工作員をしていますが、俗世間と隔離されているわけではなく、休日には民間施設で遊んだり「ガールフレンドのひとりととびっきりのディナーでデート」もしています。デート中の会話のためにもここ最近の話題は頭に入れていると思うのですが。
ここで私が考えたのは、一般人(リア充?)の映画や音楽から興味がうすれて、アニメやゲームなどの情報を多く入手するようになったため、一般人にも通じる最近の作品を知らない、というもの。私自身、アニメ・ゲームに入り込んでから一般の作品を見てる余裕がなくなりましたから。この頃から海外でも日本のアニメなどが評価されるようになりましたし、インターネットで世界がつながり、日本の作品も見ていたでしょう。
あと、リックたちの国ではあまりリア充向けの作品がヒットせず、結果としてサブカル中心になったのかも。リックたちの国は外国ですから日本とは流行もちがうし、日本で公開された洋画で判断するしかありませんが、ダースモールよりインパクトの強いキャラは出てこなかった気もします。ファンタジーものは多く出たけどテレビゲームで慣れてるからインパクト薄いし、トランスフォーマーも昔からあったコンテンツですから。
では、アニメの話題ばかりでガールフレンドが引いてしまわないのか、と疑問に思いますが、彼女のほうがアニメを好きなのかもしれません。だとしたら彼女とはアニメやネット動画などの話題を押さえておけばよいのでしょう。
上記の通り、1作目は詳細が不明な点が多かったため、舞台の年代も含めていろいろ想像しました。ゲイルの所属部隊が壊滅し自身も生死をさまよったあげく、非情で冷酷な戦士になった「7年前の作戦」について、バイオハザード3のUBCSにいたのではないか、とか。レジーナの素性は2になっても明かされません(2ではレジーナという名がコードネームである(本名ではない)ことと、所属組織の名称のみ判明する)でしたが、私はだいたんな予想として、バイオハザード2と4に登場したエイダと同一人物ではないか、と考えたりもしました。否定されることが少なくないですが。
なお舞台になる場所は、1作目は地上階にオフィスっぽい設備があり地下に研究と開発の設備がある施設で、ターゲットとなる人物を保護して脱出するもので、戦闘は避けてもかまいません。しかし2ではジャングルに点在するさまざまな設備を訪れて、任務達成と帰還の手がかりを探すのですが、ジャングルでは戦闘が避けられません。2は狩りをするゲームと割り切ったほうが楽しめるかもしれませんね。1作目はいろいろと他の使いかたも出来そうな施設ですので、それを想像するのも楽しいかも。細長い廊下などを滑走路と見なせばヒーローものに出てくる基地と考えても面白いかも。地上のオフィスは基地であることがばれないように、学校に偽装してて隊員たちが先生になってるってのも楽しいかもね。実際にウルトラマンAの防衛組織TACは同名の資格予備校(専門学校?)があったりするし。
1作目は未来が舞台であるため、バイオよりも未来的な建物や設備もかっこよかった。戦闘や探索以外にもいろいろな楽しみ方がある作品です。
歌手やバンドのコンサートを見に行って、とても楽しかった。そういう思い出を持ってるかたもたくさんいると思います。単純に歌を聞かせるだけでなく、ひとつの物語に沿ったショーを見せる場合もあります。私も具体的に誰のを見に行ったかは言えませんが(年齢がばれかねませんからね。堀江由衣さんを好きになってからは「17歳」という設定なので。)、いろいろなかたのを楽しんできました。
コンサートやライブでは、ボーカルがファンに声をかけたり、観客も答えたりします。歌にあわせてコールしたり、歓声をあげたり。それも含めてコンサートなのですが、なかにはそういうものを雑音と決め付けて「やめてくれ。歌をじっくり聴きたいのに」というファンもいます。
以前はそれに対し、先ほど述べたように「それも含めてライブなのだ。歌い手だけでなくファンの掛け声も合わせてライブが完成する。」と主張しました。実際に通常のCD用の曲とはべつにライブバージョンが収録されたり、ライブやコンサートの様子を収めたCDやビデオが発売されることもあったのです。どうしても歌手の歌声だけを静かな環境で聞きたいのなら、家でCDを聴いてればいい。そのほうが体力も金もかからないのに。そう主張してきました。
しかし最近は、少し変化してきました。アイドルや声優のライブでコールしてる人々と同じ年だった頃はコールもかっこよく思えた、バンドを聴いてたときはハイテンションにするためのシャウトもよかった。しかし、実力のある歌手の歌声を一人でじっくり聴きたいと、そう思わせる歌や、そういう歌声の歌手もいます。その場合は、今まで否定してきた人々の意見も分かるのです。
これは歌手とファンの関係が変化したせいかもしれません。かつてはアイドルや声優は憧れるものであり、親衛隊などを除くと、多くのファンは歌手本人より年下だったと思います。実際に20世紀の最終期に有名になった女性声優は「oo姉」と呼ばれる人が少なくなく、そうでなくても敬称が「さん」でした。歌手のほうが上でファンが年下(のような立場)なら、若さゆえの大騒ぎも納得できます。
しかし今は「ちゃん」づけや「ooりん」など年少の少女につけるような呼び方の人も多く、私の好きな堀江由衣さん(通称は「ほっちゃん」)のように「17歳」を宣言して、永遠に少女であるとアピールしたりします。だとしたら、年下の少女を囲むように年上の者が群がって騒いでる光景は、微笑ましいものではないと思うかたもいるでしょう。堂々とした皇帝や女王を国民が慕う姿を見慣れた人が、『ラストエンペラー』のように着飾らせた幼児に大人たちがかしずく姿を見たら「これは異常だ、この王朝はもう長くないかも」と思うのではないでしょうか。
問題は「歌だけを聴いていたい」人が少数派なら、先のようにその人だけ一人でCDを聴けばいいのですが、そういう人が多数派になったら、もしくは歌手本人が過剰な演出を嫌って「自分の歌をじっくり聴いてほしい、ファンは騒がないで」という考え方になったらどうするのか。いっそのこと、そういう歌手は無理にコンサートをせずに、楽曲の発表だけに集中してもいいのでは、と思います。けして「歌手は定期的にコンサートやライブをしなくてはならない」という法律はないのです。
今のはきょくたんでしたが、本当にライブを楽しみたい人だけが会場に行って楽しみ、歌を聴きたいひとは家で聴いたり、人ごみが嫌いな人・外出したくない人・遠方に住む人はライブを中継または録画した映像を楽しんでもいいと思います。日本人は「現場に行かなきゃ楽しんだことにはならない」という信仰があり、そのおかげで交通機関や外食産業などは潤うものの、参加者本人の体力と財布に負担をかけています。しかしアメリカでは、プロレス団体が大会場の試合をテレビで全米放送するようになると、各地を巡業して生の試合を見せるスタイルが一気に崩れてしまったのです。
合理主義すぎるのも寂しいですが、全国各地を回ってコンサートツアーするより、一番大きな会場だけでコンサートをして、それを全国に配信するのも「ちきゅうにやさしい」ことではないでしょうか。その際に「歓声カット」「歌手以外の人物(ファン、バックバンドなど)の映り込みカット」などの機能があれば、コンサート会場の雰囲気が嫌だという人は納得してくれるかな。
あくまで、たくさんある解決策のひとつであり、もっといい方法もあるはず。でも、バーチャル技術が発達し、インターネットにより家に居ながらいろいろなことができるようになった今、なにがなんでも「肉体をもつ人間が現場に行かなくては」というのは時代に合わないかも。コンサートも家でそれぞれが最適と思う環境で楽しめば、意見の対立で互いに腹を立てることもなくなるかも。全ての人が同じ事をする必要はない、それぞれの方法で楽しめばいいのです。
昔の人々があこがれた21世紀、誰もが幸せになるはずだった新世紀。だから、より多くの人が幸せになる方法を考えてみました。
年末の特番で、ドラえもんののび太としずかちゃんが結婚したきっかけとなった出来事が放送されました。あらすじは、大人になったしずかが山で吹雪にあうのを知った現代ののび太が、大人の姿になりタイムマシンで助けに行くものの、全然かっこいい姿を見せられず逆に助けられ、「そばにいてあげないと心配だから」という情けない理由で結婚をOKされるというもの。当時はのび太でさえ「かっこ悪すぎ」と言いましたが、ダメ男に引っかかる女性が今は多いので、現実がマンガに追いついてしまいましたね。
そのなかで、身体を温めるために、木を擦り合わせて火を起こそうとする(他の話での失敗からか、マッチが濡れて使い物にならないと判断した)ものの、上手くいかないのび太に、しずかがライターを差し出す場面がありました。これを見てた人のなかに「ライターを持ってるということは、しずかは喫煙者なのか」と思ったかたがいたようです。今のご時勢、よいこ向け作品のヒロインが喫煙など考えられませんが、ではなせライターを持ってたのかについて、私なりの考えを述べようと思います。
バイオハザード2攻略本の編集者は、主人公のレオンが喫煙シーンがないのにライターを持ち歩いてることについて、アウトドアライフを楽しむ活動的な若者なのではないか、と推測しました。そしてバイオ4でレオンは、地元の警官にタバコを勧められても断り、ルイスにタバコを持ってないかと聞かれたときも持ってないと返事をしてることから、非喫煙者であることと、ライターがアウトドアライフ用であることが証明されました。
ということは、しずかも街にいるときは持ってない(非喫煙者)、でも山に行くときに必要な道具のひとつとしてライターを持っていった、と考えることが出来るのです。なお他に持ってった道具はオートコンパス(カーナビのようなもの?)、毛布、「一粒でおなかいっぱいになる」携帯食、トランシーバー(携帯電話ではない。電波が届きやすいのか?)でした。
私たちは都会で文化的に暮らしていると、照明・暖房(電気こたつ、ヒーター)・調理(電子レンジなど)と生活のなかにあるものはほとんど電気でおこない、火を使うのはタバコを吸うときくらいです。しかし山など自然のなかに行ったら、照明・暖房・調理は全て火を使ってやらねばなりません。ライターを持っていくのは当然といえます。
私たちは忘れてましたが、昔の人々は火を使ってなんでもしてたのです。電気に出来て火に出来ないことは、冷やすことと家電製品を動かすことでしょうけど、冷やすのは井戸水などであるていどしていたし、洗濯は水と手でしていた、テレビのかわりに絵本や紙芝居、ネットのかわりに物知りのお年寄りが知識を教え面白い話をしてくれたのです。
人間にとって、火は欠かせないものだったのです。というより、火を手にしたときに、サルの仲間のひとつから「ヒト」になったのでしょう。火や炎をテーマにした曲も多いし、火を吐く怪獣も多い。アニメのキャラにも、ダグオンには大堂寺炎(えん)が、まどかマギカには暁美ほむら(炎を表す古語?)が主役または物語上重要な役です。
私は調理するとき、電子レンジをあえて使わずにガスコンロで煮込むまたは炒めることも多いです。機械的加工作業であるレンジに対し「人間が食べるものを作ってる」感じがあり、レンジよりもおいしく感じるのです。それに炎がゆらめくのも生きているようで、元気が出てくるような気もするのです。
なお冒頭に紹介した話では、原作に「食料を缶詰ばかり持ってきてカン切りを忘れた」というのがありましたが、現在ではカン切りがなくても開けられる缶詰もたくさんあるため「カン切りがないと開けられないタイプの缶詰ばかり・・・」に変更していました。缶詰の進化でも分かるように人間の文化は着々と進歩していますが、人間が進歩する原動力こそが火だったといえるでしょう。
お正月の特番で『影武者 徳川家康』を放送していました。おおざっぱに言うと、関ヶ原の戦いに勝利したあと江戸幕府を開いて太平の世を築いたとされる家康が、じつは関ヶ原で戦死しておりオトリの影武者のほうが生き残ってしまった、なら社会が安定するまで彼に家康を演じてもらおう、という話でした。史実ではありません。「もしもooだったら」という仮定のうえでの話です。
私はそのようなことが起きたとは考えていませんが、仮に起こったとしたらその行為は正しいと思うか(正直に家康の死を公表すべきか)について述べたいと思います。
結論からいえば、正しかったと思います。あの戦いとその後の安定は家康だから出来たものだと思います。もし家康の死を公表すれば、総司令官を失った東軍に対し西軍が再戦を挑み、さらなる被害が出たことでしょう。秀忠をはじめとする息子たちに、東軍を率いる統率力や、西軍の反抗を抑える政治手腕があったでしょうか。しかも幕府が開かれるのは戦いから3年後、それまでは将軍ではなく権威もない。石田・毛利・豊臣らと同じ一大名の立場でしかないのです。西軍を押さえ込むには実力しかありません。でもそれは無理、やはり家康のカリスマ性を借りるしかないのです。
『キン肉マン』でも、キン肉マングレートの正体であるカメハメが死んだとき、味方の混乱を防ぐためにテリーマンがグレートになりすました例がありますので(カメハメがそうしろと言った)、緊急事態をおさめるための処置としては許されるでしょう。
ではニセモノがなりすましたことに良心がとがめないか、ということについて。劇中の家康は、暗殺者にクセを見破られて影武者の目の前で殺されるという失態でした。これではたとえ関ヶ原で生き延びたとしても、大坂の陣などで失態をして死んでしまうでしょう。そんなドジなものに将軍をさせるくらいなら、ニセモノでもいいから有能なものに将軍の代わりを務めさせるのも手かもしれません。いや、当時は世襲制ですから徳川の血筋でないものが当主(幕府成立後は将軍)になればニセモノ扱いですが、今は民間の中から実力ある人が知事や大統領になる時代です。現代の私たちから見れば、劇中で描かれた家康のような者よりは、関ヶ原を生き延びた実力がある主人公を将軍にすべきでは、と考えてもおかしくないでしょう。
『聖闘士星矢』でも、女神である城戸沙織が聖域で心臓に矢を受けて死にそうになったとき、天秤座の老師や牡羊座のムウたちは、今回の戦いで命を落とすようではニセモノに等しく、これから始まる他の邪悪な神とその戦士たちとの戦いを乗り越えられないであろうと、突き放しました。主人公たちに正義があるなら必ず沙織を助けられるはずだ、と。つまり、いくら本物だと主張しても実力がなければニセモノにされてしまうのです。中国でも皇帝が家来や民衆の信頼を失ったときには、革命で倒され、その勝利者が新たな王朝を建てることは正等とされてきたのです。勝てば官軍ではありませんが、生き残れば本物で死んでしまえばニセモノ。だから劇中の石田三成も、農民(劇中のよびかたは百姓)に変装してでも逃げて、生き延びてもう一度チャンスをつかもうとしていたのです。
ではニセモノを使って、いつまで大名たちや民衆をだませるでしょうか。天下人になったとたんに振る舞いが変わってしまったら、気付かれるでしょうか。
そうは思いません。今までは挑戦者の立場だったものが王者・ディフェンディングチャンピオンになったのなら、心構えが変わってもおかしくありません。今まで他人に使われてた者が人を使う立場の管理職になったとき、他にも一般市民だった者が指導者的な立場になれば、悪いクセもなおした、慎重な態度になったなど、変わっても変ではないのです。いや、そのような立場になったら変わらなければならないのです。もっとも相撲やボクシングで横綱やチャンピオンになっても変わらない人がいるにはいましたが、彼らがあっけなくその座から転落したのを記憶してる人もいるのではないでしょうか。
なかには責任ある立場になったのに、責任感があるようには思えない人もいます。人を指導する立場になったのに他人に頼ってばかり、とか。そういう人にはずっと嫌な思いをして、くやしい思いをさせられてましたが、今回のこの物語を見て思いました。そんなやつは、誰も気付かないところであっけなく没落・転落してしまえばいい、そのあとは本人より有能な影武者がなりすまして、代わりをしてくれればいいのだ、と。
そういう気持ちにさせられる奴は、たいして個性も特技もない、同姓同名が現れたら本人であることを証明できなくなる奴だったりします。手紙も直筆ではないので筆跡で個人を証明できない。ワードを使ってお決まりの文章を飾るだけで、文章の構成や言葉の使い方で個性を表すこともできない(しかもそれを模範的な仕事と思ってる)。ときには悪い意味でおきまりのパターンすぎて、迷惑メールを認識するソフトにはじかれてしまう。そんな個性のない奴が突然いなくなったって、周囲は騒いだりしないでしょう。実際にプロレスの世界では、平均的に上手だけどアピールする個性のないレスラーが海外修行とともにファンに忘れられ、直後に現れた個性的な覆面レスラーにファンは注目して大騒ぎ、個性のないレスラーは人々の記憶から消えてしまうのです。個性のない奴など、人々に忘れられ、ニセモノに取って代わられて、消えてしまえばいいのです。
とはいえ、私たちにもその危険性はあります。人々に忘れられないために、消えてしまうのを防ぐにはどうしたらいいのか。それは人々が「この人に存在しててほしい」という個性や特技を持つことでしょう。面白い話ができる、得意分野の知識が豊富、絵が上手でタッチやフェチに強い個性がある、打ち込んでる競技があり大会で入賞した、など。それこそが「世界にひとつだけの花」であり、その花の色と匂いは忘れられることはありません。
そういうのがどうしても苦手な人は、新しい自分を作って個性をだしてはどうでしょう。メールやツイッターなどのウェブ上で、なりたい自分になるのです。先の覆面レスラーも、個性を出せなかった者が消えてしまったふりをして覆面をかぶり再デビューしたのだと言う人々もいます。ならば個性のない自分など、友人に見捨てられる前にみずから封印してしまい、新しい友達として参上すればいいのです。
「キャラクター」になじめない人はいやかもしれませんが、かといって「個性を身に着ける努力なんてバカバカしい、努力しなかったために個性など何ももってない自分だけど、血のにじむ努力をした人と同等に扱え」と言われても、絶対に嫌です。世界にひとつだけの花は、水をやり肥料を与える努力をしたから咲くのです。個性の花を枯らすやつはいつか友情も枯らす、そんな奴は私の前から消えてしまうがいい!入れ替わるように現れた個性のある新しい友達とつきあうから。
最後はかなり思うところを書きましたが「本人ではなく他人が入れ替わっていた」という設定は、「では本人と他人はどうちがうのか」「自分って何なの?他の人とどうちがうの?」「自分も入れ替わられるのか?それを防ぐにはどうすればいい?」など、いろいろ考えさせられました。この作品で小説やマンガを作って金儲けしてる人々は、そのへんを意識して作ったのでしょうか。その人たちも過労で倒れて影武者が代わりをしたら「文脈や絵が微妙にちがう、これは影武者だ」と気付いてもらえるでしょうか。それとも気付かれずに・・・。そう考えると、けっこう恐ろしい物語かもしれません。
日本人にとって定番の食事のなかに、カレーライスがあります。総合的なレストランや食堂には必ずメニューとして存在し(ただしファミレスにはないこともある)、専門のチェーン店もあります。たくさんのキャラが出てくるアニメなどには必ずカレーが好物のキャラがいたり、とくに戦隊ヒーローのパロディではイエローが好物のことが多い(実際には初期にあった2作品、ゴレンジャーとサンバルカンだけと言われている)など、日本人の日常にすっかりとけこんでいます。
私の大学にある学食でも、スパゲッティと並んで人気メニューでした。しかし、現在の中学部や高等部の生徒に「マクドナルドでカレーを売ってたことがあったんだよ。」と言ったら、おそらく信じてもらえないでしょう。しかし本当にあったのです。
たしか90年代の前半、520円くらいだったと思います。カツカレーだとあと100円くらい高かったかも。記憶では山田邦子が「マックはカレーもやってるよ」と宣伝してたと思うのです。でも、いつのまにかなくなってしまいました。
現在ではココイチのポークカレーが420円ですので、高いとおもうでしょうけど、当時はマクドナルドで通常のハンバーガーが210円だった時代です。一般の食堂でカレーを食べても700円はするインフレの時代。500円ちょっとでカレーは魅力的でした。
ましてや、当時はココイチやC&Cなどのチェーン店が地元になく、個人経営のレストランは気軽に入れる雰囲気ではなかったので、全国チェーンのファストフードで気軽に比較的低価格でカレーを食べられるのは画期的でした。私にとって、家庭の味もしくはキャンプなど野外活動での食事のイメージが強かったカレーライスが、街中で個人で食べるものに変わった出来事でした。家庭レベルだけでなく、個人的にも身近なものになったのです。
そのあと今までの街よりも、自由で個人を尊重する感じの街に引っ越しましたが、そこには庶民的な値段のカレー屋さんがありました。それからはそこに通いつめて常連になったものの、原材料の高騰により値上げをするようになったころに、ココイチが地元に進出。学食のカレーにも惚れたうえに、なじみの店にいた気さくなおばさんがやめてしまい、しばらくその店に行かなくなったのです。しかし物価が下がった頃にココイチ並みの値段に下げたので、また行ってみると新たな看板おばさんが配置されてました。
今ではさらに引っ越したり、最寄りのココイチが大規模再開発で追い払われたりしたため、なじみの店もココイチの店舗も遠くなりましたが(一番近い店は自転車置き場がなく歩くには遠い。2番目は坂道を登る必要があるうえ周囲にパッとした施設がなく、その近辺に行く用事が少ない)、それでも東京などいろいろな場所に用事で行くときに、よく食べてます。
夜中の情報番組『おねがいランキング』でも先の例に従い、おねがいイエローの好物とされていて「カレーは飲み物」と公言しますが、実際に飲み物のようなさらっとしたルーも多いですね。私はどろっとした、とろみのあるカレーが好きなので(ご飯の上に乗せても流れ落ちないような)、家で作るときはカレー粉を多めに入れて煮込んだり、レトルトなら暖めたあとで固形ルーを薄くスライスしたものを溶かすなどして、とろみを出そうと力を尽くしています。
なおオシャレな感じのカレー店に、アラビアンナイトに登場する魔法のランプのような形の容器にカレールーを入れることがありますが、あれはグレービーボートとかソースボートと呼び、他にもドレッシングなど液状の調味料などを入れるのに使う器だそうですね。カレーとご飯を同じ皿に盛るのに慣れてる人たちにも、とてもオシャレな感じがすると言われ、隠れたファンも多いようです。
一応は洋食なのでしょうけど、日本の国民食といってもいいカレーライス。これからも数え切れないほど食べることでしょう。
私は毎年はじめに、前の年がどんな年だったかを振り返ってフレーズを決めています。2012年も。そして2013年のが決定しました。
それは「再会、再理解」です。昨年はあまり新しい作品に出会えず、再放送やリメイク作品に大きく影響を受けた年でした。現実でも新しい出会いや大きな飛躍はなく、今までの守備範囲を堅実に固めていったという感じでした。
リメイクで話題になったものは、なんといっても『宇宙戦艦ヤマト2199』でしょう。21世紀の映像技術と宇宙科学の学説を取り入れたり、ヤマトのクルーたちの言葉などに海軍用語を取り入れたり、地球だけでなくガミラスやイスカンダルの国としての事情を説明するなど、大胆なリメイクでした。ただ、途中で新しい主題歌を使ったのは、私の周囲では不評だったようです。今までのテレビシリーズでは、目的地がイスカンダルではない作品でも「宇宙のかなた イスカンダルへ」と歌われる主題歌を使い続けてきただけに、「なぜ今さら?」って感じは避けられませんね。
プリティーリズムは3年目の『レインボーライブ』でしたが、TRFの名曲「Boy Meets Girl」「EZ do dAnce」「Crazy Gonna Crazy」をリメイクしてオープニングに持ってきました。1曲目の歌詞で「20世紀で最高の出来事」とありますが、この詞をそのまま残して、21世紀生まれの少女たちに歌わせるのも興味深いことでした。もしこの話が放送時期である2013年なら中学2年生の主人公たちは1999年生まれであり20世紀生まれですが、もしかしたらそれよりずっと前かも。劇中で「ズコー!(ずっこける効果音。忍者ハットリくんで使用して広まったらしい)」「だめだこりゃ(ドリフターズのコントでいかりや長介が言うダメ出し)」と言ったり、主人公が練習に使ってるギターが「お父さんが昔テレビに出たときにもらった白いギター」である(あとから分かったけどTVジョッキーという昔のバラエティで実際にあったこと)など、20世紀(どころか昭和)のネタが満載です。
ただ、家庭の不和などシリアス面も容赦なく、私はそれが嫌で2期の途中で離れたのですが、3期が始まるときに「見てみようかな」と思わせたのがTRFのリメイクが流れた番組予告だったのです。とりあえずTRFだけでも聴こう、と。そしたら、なるちゃんたちを好きになってしまったのですが、きっかけはTRF。あなどりがたし。
再放送で一番印象に残ってるのは『魔法少女まどか☆マギカ』です。1話から最終回まで通して見たのは今回が初めてでした。いろいろと噂は聞いていましたが、私はハンパな宣伝やレビューを見ると嫌いになってしまうことが多いので(私がよくないほうに考えすぎなのか、レビューする人に長所を伝える力がないのか)、実際に見て判断することにしました。
感想ですが、すごいものを作り出したな、と。けして万人に勧められる作品ではない、アンチも出るでしょう。でも、今までの魔法少女モノとは全く違う、本当に新しい作品をゼロから創造したことは、偉業だと思います。そして、本編だけで終わらずに外伝などをいくらでも作って楽しむことができる自由な空間(D.C.Ⅱのビジュアルブックでは、たけうちこうた氏が「遊び場」と表現した)を創成してくれたことに感謝したいです。
再放送は他にも、ローカル局で『プロレスの星 アステカイザー』がありました。これはウルトラマンなどの巨大ヒーローで有名な円谷プロが、特撮の人気が下がってた時代になんとか活路を見出すために、さまざまな工夫をしながら製作した意欲作。アニメのほうが人気があった時代のため、戦闘中にアニメになったり、プロレスの技で戦うなど、一風変わった作品でした。こういう作品もあったのか、と驚きました。主題歌もカッコイイし、主人公のメカがトライク(3輪の大型バイク)なのは独特でよかったけど、まだプロレスに、みための華やかさと技の威力を両方持った技があまりなかった時代のため(ラリアートなどが出てくるのはこのあと)、今みるとプロレスが地味かな、と。
再放送では『マクロスF』で、聞いたことがある歌をいくつも確認できてよかったです。チルノの歌に出てきた「ご存知ないのですか?」が、これの「星間飛行」という歌が元だったのが、ようやく分かりました。この作品の歌は、タイトルとサビの歌詞が一致しないことが多いので分かりづらいのですが、名曲ぞろいです。
他に再放送中のでは、ゴッドマーズがいかにも昭和時代につくったSFってかんじです。アイドルマスターは聞いたことがある歌やキャラを確認できてよかったです。すでに好きな人たちが初心者に親切ではないことが多かったので友達同士の話題にはしなかったのですが、いい歌が多いし、ようやく話題に出来る相手も見つかったので好きになれるかも。ラブライブ!も再放送がありましたね。でもやはりアイドルものでは、一番おだやかな作風のアイカツ!が一番好きです。一般市民にとっては、芸能界はあこがれの対象であってほしい。汚い部分は写真週刊誌を読みたい人だけが見ればいいと思います。
そして最後の再理解が、1年最後のイベント、紅白歌合戦でありました。『進撃の巨人』の主題歌「紅蓮の弓矢」が歌われたのです。この作品は、巨人は理科室の標本模型みたいで気持ち悪かったし、それと闘う人たちも軍隊のような感じだったので、見てなかったのです(軍隊や兵器が嫌いというのは、戦争はよくないとする教育を受け、軍隊を持たないと誓った憲法を持つ国の国民なら異常なことではないと思います)。しかし主題歌を聞いて、そのかっこよさにしびれました。私は第二外国語がドイツ語だったので、それを使った歌詞もよかった。
作品の雰囲気やキャラはともかく、主題歌は気に入りました。今ではバイオハザードで大量のゾンビや手ごわい怪物と闘うときにくちづさんでます。あ、バイオのキャラは警官やスパイです。軍隊の兵士ではありません、だから合憲です。いや、主人公たちはアメリカ人で軍隊が公認された国だから軍人でもいいのですが。
ただ、冒頭でも述べたように大きな飛躍がなく、守りの体制が続いたのが不満ではあります。今年は午年なので、馬のように速く走って大きくジャンプしたい。現実でも何らかの成果をだしたいし、アニメなどでも新作で面白い作品に出会いたいです。
今年が、すばらしい年になりますように。
私は知り合いから文系の人間と思われることもありますが(大学の専攻は教育学)、かつては理科や数学のほうが多くの時間をかけて勉強していました。
その理由は、はやく子育てから解放されて楽になりたい親に「早く一人前になれ。」と言われ続けたことでした。一人前の人間というのは、何でも完璧に理解している人間のことだと思いました。それに早くなるには、あいまいな要素が多い分野よりもたったひとつの回答がはっきりしてる分野のほうが手っ取り早いので、あいまいな答えがある文系より答えがはっきりしてた理系に行こうとしました。
しかし学年がすすむにつれ、数学や物理もあいまいなことが出てきたり、それを無理に計算するために難解な理論が出てきました。物理では相対性理論で「時空がゆがむ」と言われ、数学では実数の解がない式を無理して解くために「虚数(および実数+虚数である複素数)」が出てくる。逆に積分ではグラフ上に存在するはずの面積どうしが打ち消しあって答えが0になったり。
分からないことがある私は、無能な人間ではないか。世の中に必要ではない人間ではないか、と悩みました。
でも勉強と言うのは、分かっていることを暗記するだけではありません。分からないことを探求することも勉強なのです。学年が上がるにつれて後者のほうが多くなり、本来ならレポートを書かせることをすべきなのですが、親が選んだ町の親が選んだ学校では、暗記一辺倒だったので分からなかった。同じ学年に私立の学校では、レポートを書かせ自由に探求させてたというのに。
ちょうどそのころ、ファンタジーが世間で話題になりました。魔法や怪物が出てくる世界。理解できなくてはダメと思っていたので、化学や進化論で魔法や怪物を説明しようと試みましたが、ダメでした。やはり私は馬鹿なのだと思い込んだりしました。今考えれば、こんなことを本気でするほうがバカかもしれませんけど。
でも、そんな月日のはてに「解明できないことがあってもいい」ということに、ようやく気がつきました。大学の先生は分かってることを講義するだけが仕事ではなく、分からないことを研究・探求するのも大切な仕事です。大学の先生が「分からない」というのは当たり前で、それを非難するマスコミや私の親のような人のほうが、学問というものが分かってない愚か者だったのかもしれない。分からないことがあってもいい、そしてそれを探求することは苦難ではなく、ロマンあふれる冒険なのだ。そして、急いで大人になる必要はないし、大人になっても冒険を続けていいのだ、と。
それに気付いてからは、勉強が楽しくなりました。ファンタジーという概念が出来てからは、虚数や微分積分の計算も未知の空間でおこなうファンタジーと思うようになりました。虚数は式の計算が可能でも、その式を図形として表現できないこともある、でも私たちが見ることのできない空間に広がっているのではないか(その例。二次方程式で2つの解のうち面積などで負の数はおかしいから正の数のみが答えになる場合、二乗が負の数なんだから虚数空間にあるのでは、とか)。虚数や三角比などをつかえば、解けない問題も解ける。これは魔法だと思えばいいのかも。できることなら、受験の前に気づきたかったね。そうしたらもっと都心に近い大学に行かれたかも。
そのように悩んでたころは、SFアニメも見ませんでした。周囲の大人たちは「アニメは子供が見るもの、中学生以上になったら見るものではない」という態度だったし、子供が見るものなら内容を理解できるはず、なのにリアルなSFアニメは学校でまだ習ってない物理や、政治や経済の問題を扱った作品などが出てくるので「アニメは子供が見るものなら、なぜ理解できないのか」とますます自分は無能な人間だと思い込み落ち込みました。そしてアニメを見なくなっていったのです。
そのころは子供向けだけではなく、マニア向けの作品が多く出てた気がします。せっかくつかんだファンに去られては困るので、そのファンたちが納得するような、内容の濃いマニア向けの作品を作るのは当然だったかもしれません。それに典型的なパターンが出尽くしたか飽きられたら、変わった作品を作ろうとするでしょう。そうして作られたマニア向け作品群は子供が理解できなくても当然なのです。
それが理由で、今は語り草になってるアニメをたくさん見逃しましたが、『えびてん』などで主題歌のカバーがおこなわれた、それらの作品の存在を知るチャンスが与えられたので、主題歌だけでも楽しもうと、色々聞いてます。
一時期は「自分がまだ見たことがない場所に、自分の居場所があるかも。」と、当時は今ほどメジャーではなかったOVAを見た時期もありましたが、マニア向けの作風が嫌になり、単純明快な子供向け作品を見るようになりました。心が純粋(子供)ならいいではないか、と考えて、そのうち飲酒など子供ではできないことを禁止するようになります。そして堀江由衣さんや田村ゆかりさん(これ以降「ほっちゃん」「ゆかりん」と呼称する)の影響で「17歳」を宣言するようになったのです。
ただ、本気にする人もいるので、声優の影響だと言ったり、大学生活や勉強した科目、選挙で投票した話などもして、打ち消してますが。
17歳といえば、声優で自称17歳を最初におこなったとされる、井上喜久子さんについて「17歳なのに活動25周年を迎えた、なぜだ」という話が流れてきたので、その謎を解いてみましょう。俗世間でいうように1964年誕生としたら、17年以上の年数は虚数の空間に消えさった時間と考えて「17+32i」歳ですが、複素数は実数部分と虚数部分を足すことは出来ません。そこで実数部分のみを表記して、17歳なのです。
しかし虚数iが分からないとiを無視して数字部分を足してしまい「49歳」としてしまうのです。iが分からない、いや、愛が分からないのですね。喜久子さんは「17+32i」歳なのです。いや「17+32愛」歳でしょうか。(※後述)
ゆかりんも、つらくて忘れてしまいたい出来事がたくさんあったようですが(ラジオのとき話題によってはムッとしてしまう)それも虚数空間に捨ててしまいたいですよね。ゆかりんは2月生まれでほっちゃんは9月生まれ、俗世間でも同じ年に生まれたことになってるので、年齢「17+x i歳」のとき、1年のうち半年間はxのアタイ(値。チルノの一人称ではない)は同じで、残りの半年はゆかりんのほうがxのアタイが1だけ多くなります。しかし学校の学年はつねに、ゆかりんのほうが1つ上級生です(ただし10月入学の学校なら同学年)。
実際に数学を研究してる人も、友愛数などの数字や未解決問題などにはまりこみ情熱的になる人も多いようです。今は数学を勉強しなおしていますが、数学は広大なフロンティアがあるファンタジックなものなのかもしれません。
※ 実際に高校の数学Ⅲで習う「複素数の絶対値」では、17+x i=49の値は、x=6√33=34.47です。
参考までに、17+x i=37の値は、x=6√30=32.86になります。
『えびてん』で昔の主題歌をカバーしたもののなかで、いちばん好きになった歌は「メロスのように ーLONELY WAYー」でした。あとになって堀江由衣さんも歌ってることを知り、カラオケでも歌うようになりました。今回はメロスについて話したいと思います。
メロスと聞くと、多くの人は『走れメロス』を想像するでしょう。学校でも教科書に載ってますからね。でも私がメロスという名前をはじめて聞いたのは、ウルトラマンの外伝的な話に登場する、アーマーをまとったウルトラマンの仲間でした。アンドロメロス、とも呼ばれます。
最初の設定では、アンドロメダ銀河(当時はアンドロメダ「星雲」といっていた)支部にいる、ウルトラマンの仲間という設定だったようですが、のちにアンドロ族という独自の種族になったり、設定が少々変更されたようです。当時は情報化されてないので、古い情報をチェックすることがむずかしかったうえ、新しいものが出たら古いものを忘れてしまうのが美しいとされ(90年代にティガたちが話題のときも、昔のウルトラ兄弟は話題にされませんでした)、そのために、昔の作品を展開したときに幼稚園の年少だった子供が卒園する(語り継げなくなる)3年後には、今までの設定をなかったことにして、今までのキャラで全く新しい作品を作ることができたのです。トランスフォーマーも3~5年で以前のおもちゃを使いまわして新しいストーリーを作ることがありました。
地球で活躍したウルトラ兄弟とは違い、宇宙の惑星などで闘ったそうです。リアルタイムで見ることは出来ませんでしたが、あとから特集でみました。ミニチュアを作製しなくていいので安くすんだと思いますが、当時の子役タレントから「スタジオで撮影してる(のがバレバレ)」とか言われてしまいました。あとから聞いたのですが、それまでのフィルム方式ではなくVTR方式で撮影したそうで、合成などがしやすく技術面で特撮に向いている反面、はっきり映りすぎて仕掛けがばれてしまうのが欠点なのだそうです。ウルトラマンティガのときも子役タレントに「ビルがプラモデル」と言われてました。
リアルタイムで見られなかったため、アンドロメロスの主題歌を聞いたのは96年の『ウルトラマンM730 ウルトラマンランド』でした(他にも円谷作品の歌の多くをここで初めて聴いた)。13年も経ってから。しかし「メロスのように」を『えびてん』で聴いたのは、主題歌だった『蒼き流星SPTレイズナー』放送から27年もあとでした。本来なら知らないまま通り過ぎてしまう人に、名曲を知るチャンスを作ってくれた2つの番組に感謝です。
なお『走れメロス』はシラクサが舞台で暴君の名はディオニス。その町は実在し、ディオニュソス1世という似た名前の暴君がいました(ただしアフリカにあった敵国との戦争では、ヨーロッパへの侵攻を防ぐ盾になって奮闘したとの評価もあるらしい)。それゆえ太宰治が書く以前から、似た形式の伝説があり『まんが世界昔ばなし』では(太宰の小説ではなく)伝説を原作にしていました。
太宰のメロスは、やや直情的な部分もありますが(政治が分からないのに王宮に侵入して抗議する、勝手に親友に人質をたのむ、山賊を一方的に王の妨害工作と決め付け「正義のためだ」と言って倒す、など)、正直でまっすぐな性格です。「メロスのように」でも、引き止める相手に対して、自分らしくまっすぐに生きていきたいと語るかんじの詞でした。
この世の中で、まっすぐに生きるのは大変です。それこそ「LONELY WAY」でしょう。でも自分を偽りながら生きるよりはいいと思います。そして、まっすぐに生きていきたい、と思うのです。この歌を聴くたびに、いつも。
80年代前半に日本テレビ系で放送され、のちに地方局で何度もくり返し再放送された「まんが日本史」という番組がありました。学習マンガの日本史をアニメにしたような番組で、原始時代から明治維新まで(ダイジェストで議会の仕組みが作られる様子も)を描いています。
私も千葉テレビの再放送をくり返し視聴しました。「宮さん宮さん」の歌を初めて聴いたのも戊辰戦争の回でした。明治時代より前についての私の日本史観は、この番組で作られたと言っても過言ではありません。
もちろん、80年代初期に教科書で使用されていた説をもとにしているので、今見るとおかしな部分もあります。堺市にある大仙古墳を「仁徳天皇陵」と読んでいたり、徳川家康が天ぷらを食べたことによる食中毒で亡くなっているなど。とはいえ、この番組で日本の歴史の基本部分を学んだ人はとても多かったと思います。
抑揚のあるしゃべりかたは子供にも分かりやすく(逆に言うと私が棒読み解説が嫌いなのはこの番組の影響)、演出も見事で、川中島の合戦における上杉謙信と武田信玄の一騎打ち(これも実際にはなかったという説あり)の迫力はバツグンで、映画「天と地と」以上にかっこよかった。さらに農民の一揆を描いたときには、一揆を決意する背景からその準備までが詳細に描かれたのもよかった。ともすると天皇・貴族・武士などを中心に描きがちな歴史もので、貧しい農民の生活もきちんと描いたことは大きく評価されていいでしょう。
番組の最後には、男の子と女の子にたいして、お姉さん(声は歴史パートのナレーションと同じ)が概要を説明したり、生徒・児童が疑問に思うようなことがらに答える形式で解説し、さらに同じ頃の外国の動きを紹介しました。エンディングはサーカスが歌う「風のメルヘン」、歴史番組のEDらしく、恋人達は遠い昔から何度も出会いを繰り返した旅人なのだという歌。
素足にスリッパを履いていたお姉さんがスリッパなしで正座したときや、普段は白い靴下を履いている女の子が15話(平安京が荒れてきて武士が登場する話)のときのみ裸足だったとき(ただし塗り忘れの可能性もあり)は、裸足・素足フェチの人も喜んでみてたのでは、と思います。ただし足の指は分かれてなかったけど。そこで私が描きました(笑)はだしの足の指がはっきりと描かれたお姉さん。なお設定では、お姉さんは裕子さん、女の子は愛ちゃん、男の子は良太くんという名前があったらしいのですが、良太くん以外は劇中で呼ばれたことはなかったようです。
出来ることなら、明治維新以降もやってほしかったのですが、戦争での犠牲者の数などのように、意見が分かれるものが多いので実現できないのでしょう。しかし、信長を「光秀が決行しなくても恨んでた他の誰かに殺されたと思う」、秀吉の朝鮮半島への侵略戦争を「うぬぼれて他国を侵略した者はいずれも失敗した」とバッサリと斬った調子で、近現代の日本史を描いてほしい気がします。
しかし自虐的な見解ではなく、戦国時代が終わったことを平和な時代が来たと喜び、明治維新もより多くの人々が自由になったのを喜ぶなど、つねに歴史上の変化を前向きにとらえていました。そして日本の未来は私たちが作っていくのだ、とも。
東日本大震災・スカイツリー開業までが描かれた現代編がもし製作されたら、最終回の最後に、お姉さんは言うでしょう。
「この大震災からも、きっと日本は立ち上がるわ。原爆を落とされても復興したのだもの。二度目の東京オリンピックもすばらしい大会になるでしょうね。
この列島で歴史を歩んできた、日本人の知恵と底力を、私は信じているわ・・・。」
ここのところ、学者の論文を巡っての議論があったせいか、学問に対する風当たりが強い気がします。それだけでなく学問というものが理解されてないのでは、と思うことが多いので、話してみたいと思います。
まず「学問の世界では、批判は悪いことではない」ということ。
一般社会で暮らしている人々のなかには、他人を批判することはよくないと思ってる人が多くいます。しかし学問というのは、他人の説に疑問を感じる部分があれば批判するのは当たり前であり、実際に「ooo批判」という論文や学術書もたくさん出ているのです。
学者にとって他人の説を批判するのは、レシピどおりに料理を作らず「こうしたらもっと美味しくなるかも」とアレンジを加えるようなものです。それによって各地方・各家庭の味が出来ます。1種類の味しか許されないなら、料理文化は発展しないでしょう。
批判を悪いことだという人々(これ自体が学問を「批判している」のだという矛盾に気付かないのだろうか)は、「すでに正しいことは決まっており、それに異を唱えるのは秩序を乱すことだ」とでもいうのでしょう。しかし本当に正しいことは決まっているのでしょうか。
会社の上司からの命令?それが本当に法律・人道・民主主義的に正しいと誰が保障できますか?上司や役人だって自分達の利益を考えるあまり他人に迷惑なことをしてしまうことはあります。ましてや資本主義社会では金もうけのためなら多少の悪は許容されると思い込む人も多いですから。
教科書に書いてあることだから正しい?なら次のステップを読んでください。
「学問というのは、のちの時代に否定されることがある」と言うこと。最新の学説をもとにした書籍や科学系番組などで「あの大学の発表は否定されたものが多いから信用しない」という人もいますが、科学が発展して新事実が見つかれば、今までの説が否定されることはあります。
一つ前の話では日本史での例を出しましたが、他にもあります。昔はプトレマイオスが太陽や惑星は地球の周りを回ってると唱え(天動説)信じられてきましたが、現在は否定され地動説が信じられています。生物は泥から発生するという説(自然発生説)はアリストテレスもそう信じていたし(実際は生命からのみ発生)、鉛から金を作れると本気で思ってた「錬金術」はニュートンでさえ興味を示したといいます(実際は原子の構造が違いすぎるので出来ない)。20世紀になってからも、ルイセンコが「同じ麦の種から小麦・大麦・ライ麦を作り分けることが出来る」と唱え、それを奨励したスターリンが死去する1953年まで、ソ連では本気で信じられてきました。
しかしプトレマイオス・アリストテレス・ニュートンが、それによって名誉を剥奪されたわけではなく、今でも偉人として讃えられています。ルイセンコは存命中に間違いが発覚したので前3者よりは苦しい立場に置かれたものの、世間でいわれてるほどの名誉失墜はなかったともいわれ、研究所所長を辞任したのも年齢的に引退のタイミングでした。
日本でも野口英世は多くの発見をしたと讃えられてますが、日本テレビの『知ってるつもり?!』によれば、放送当時の1990年の時点で、彼の発見はほとんどが否定されていたそうです。現在でもほぼ正しいと言われてるのは2つで、それも放送から24年のあいだに否定されたかも。それでも偉人の地位はゆるがないどころか、千円札の肖像画にすらなっています。もっとも全ての研究が現在でも認められてたら、もっと高額の紙幣になってたかもしれませんけど。
スポーツの世界では次々に世界記録が生まれますが、逆に言えば記録はすぐに破られるのです。陸上の100メートル走では、1996年にドノバン・ベイリーが9秒86の記録を出して、3年後にはモーリス・グリーンが9秒79で破りました。この記録も破られ今はウサイン・ボルトの記録が9秒58。それと同じように学問の世界でも新しい学説が出ては古い説が否定されるのは日常です。とくに恐竜のティラノサウルスが(ジュラシックパークやディノクライシスのように)ダッシュできたかについては次々に研究が発表され、100メートル走の記録更新なみのペースで「走れる」「走れない」を行ったり来たりした時期がありました。
でも以前の記録が破られても、ベイリーやグリーンがオリンピックや世界陸上のメダルや新記録達成の奨励金を没収されることはありません。同じように科学者が発表した研究が新説によって否定されても、それによって得た賞や学位、お金などを返す義務はないのです。
一般社会で暮らしてる人たちは「失敗の責任を取らなくていいなんて無責任だ」と言うかもしれません。でもそのおかげで新しい説が発表しやすくなり、多くの説の中から真実を見つけやすくなるのです。たとえ仮説でもどんどん発表すべき、選択肢が多いほうがいいのです。批判を恐れて誰も発表しなかったら謎は解明されないまま。憶測でも仮説でもいいから発表すべきと思います。
本来は一般社会もそうすべきなのです。子供に手伝いを任せて失敗すること(それによる経済的損失)をいやがって何もさせない親はろくでなし、子供の成長のためにはチャレンジさせるべき。損失は新しいハンドバッグや財布を我慢すれば埋められる、かわいいわが子のためならそのくらいできるはずです。会社も若者の意見を取り入れ積極的に挑戦させる、その程度の損失でかたむく会社ならいずれ他の原因でつぶれる、その程度の経営体力しかない会社なら無理に経営しなくてもいいでしょう。
「学校は検定済みの内容をそのまま教える場所ではないのか」と、高校までで学校生活を終えてしまった人は言いますが、それは高校までの話です。大学はすでに分かってることを教える「講義」と同じくらい、まだ分かってない部分を自由に探求して発表する「研究」も大切な仕事であり、そのために大幅な自由が認められています。講義にしても自由があり、同じ「外国史(西洋)」でもA大学では北米史、B大学では東欧史だったなんてこともあります。
学問の世界は自由が認められたなかで研究し、発表も批判も自由なのです。でもそれが奨励されるべきであり、一般社会のほうが金もうけ主義に毒されたろくでもない社会。毒に染まった奴が清らかな人間をののしるなど、気持ち悪いです。
最後に、理化学研究所(理研)を題材にしたドキュメンタリーにあった、印象的なセリフを紹介します。資金繰りがゆきづまったときに物理学者が言った、
「電気を止められて計算機を動かせなくなっても、紙とペンで計算を続けるさ。」
私も理解のない親のせいで何度も不自由な思いをしましたが、それでも自分のやりたいことをやめませんでした。テレビゲームを買ってもらえないときは消しゴム人形でテーブルトークをして、それも取り上げられたら、紙に鉛筆でキャラを描いて遊びました。本当はそんな思いせずに、必要なものを全て与えられ自由に研究や遊びが出来るのがベストですが、こういう不屈の精神を持った人たちが学問を発展させているということを、忘れないでほしいのです。
こち亀の初期に、両津さんがはじめて中川さんの邸宅を訪ねる場面がありました。そこはとほうもなく広くて豪華なものでしたが、実際にどのくらいあるのか、しらべてみました。ただし小学校高学年でも分かるように、できるかぎり計算はかんたんになるよう処理してあります。
敷地を囲む塀にそってのびる道路にたどりつき「もうすぐだな。」と思ったのに、なかなか門にたどりつかない。両さんが「表門以外に門をつくっておけ」との言葉に中川さんは、今向かっているのが一番近い門であり「表門まで行ったら今日中につきませんよ。」と言いました。
両津さんは「夜勤明けの非番(休みの日)」と言ってたので、ひと眠りしてからの出発と考えられます。仮に午前中の遅い時間に出発してお昼ごろに塀の前についたとしたら「表門に今日中にはつかない」は、表門まで12時間かかる、ということになるでしょう。
中川邸が円形をしていると仮定し、両さんたちが表門から一番遠い場所にたどりついたのだとしたら、一周するには出発点から表門に行く道のりの2倍走ることになります。敷地外側の道路は一般道路のようですが、仮に時速50km制限の道だとしたら、
道のり=速さ×時間 ですので 50×12×2=1200km。中川邸の外周は1200kmもあることになります。
敷地の面積はどうでしょう。面積は、半径×半径×円周率。中学校以上だとπr2と表記しますが、ここは計算をかんたんにするため円周率は3でいきます。もっと精密にやってみたいかたはご自身でどうぞ。その前に中川邸の外周から半径をもとめなくてはなりませんが、
半径×2×円周率=外周ですので、順番をなおして計算すると1200÷(3×2)=200。中川邸の半径は200キロメートル。
面積は200×200×3=120000。なんと12万km2。日本の本州の面積が22万8000km2弱ですから、その半分より広い。子供の頃は不思議に思いませんでしたが、とんでもない面積ですね。
敷地の端から端まで横断しようとしたら400km。東海道新幹線で東京を出発すると、名古屋の次の岐阜羽島が396km地点ですので、そのちょっと先までと同じ。これは敷地内に新幹線を通したほうがいいんじゃない?と思ってしまいますが、そのエピソードではランボルギーニ社の自動車カウンタックをフルスピードで走らせていました。これは当時において公道を走れる最速の自動車だったそうで(中川自身の弁。実験場やレース場のみの走行ならロケット式のもっと速いのもある)、自宅の敷地(私有地)ならフルスピードで走っても交通違反ではないですからね。
子供の頃は、これを全然疑問に思いませんでした。それどころか、皇居もそのくらい広いのだろうと思ってたのですが、東京都のパンフレットによれば一周が5km。時速10kmでジョギングしても30分しかかかりません。
こち亀にはカンチガイしてたことや初めて知ることも多いです。最後にそれをもうひとつ紹介します。
喫茶店で中川さんが「アメリカンね。」といい、両津さんが和風デザートを頼もうとしたけどなかった、そこで
「いっしょでいいや、パンアメリカンね。」と言い、中川さんに「ただのアメリカン!」と訂正されます。
当時はパンアメリカン航空なんて知らなかったので、「パンアメリカン」は、アメリカンのコーヒーに食べ物のパン(おそらくトースト)がついてくるセットのことだと思っていました。中川が訂正したのは「パン付きなんてぜいたくです、コーヒーだけにしてください。」という意味だと思い、意外とケチだな、と(笑)。意外と中川はケチなところもあり、(おもに両さんのしわざで)何かを壊されたり汚されたりすると「oo万円もしたのに。」となげいたりするのです。
今は若者がつどうのも喫茶店からファミレスになりました。そしてファミレスに立ち寄りながらあちこちを歩くようになると、距離や面積の感覚がわかるようになったのです。
世の中には、人々に苦しい作業をさせて自分は「司令官」と称し、楽なポジションにいる人がいますね。困ってる人を助けると言っても、助ける人材を呼んでくるだけで自分は何もしないのに「パイプ役」「龍馬だって薩長に戦争やらせて自分は戦わないだろ。」と開き直ったり。嫌なやつらです。
でも、海軍にそういう艦船があると主張する人がいました。「空母は飛行機に苦しい戦いをさせて、それ自体は戦わない。空母の戦闘力は戦艦より上だが、前線で命をかけて戦うのは搭載された飛行機だ。」と。だから日本では空母は人気がないのだ、とも。
そういわれると、空母って、苦しい現場に部下を送り出して、自分はエアコンが効く部屋でソファに座ってコーヒー飲んでる上司のようなイメージですよね、ひどい話です。でもそれだったら、資本主義ビジネスの本拠地であるアメリカで空母が人気なのはなせ?と思ってしまいます。
以前聞いた話では、アメリカでは会社の戦略や作戦を考える司令官的な人物は、前線で働く社員とはちがう契約形態か、もしくは完全にちがう場所からやってくるか、です。契約状態がちがうなら、自分たちが損をしてるかなどの比較はできません。月給の正社員と自給計算のアルバイトを単純比較できないのと似てるかな?だから不満が出ないのでしょう。
でも日本は同じ会社に指令側と前線組が同居してることが多く、しかも上司と部下の関係であることが多い。これでは単純に比較ができてしまいます、命令する側のほうが高待遇に決まってる。だから指令を出す空母とそれをこなす飛行機も上司と部下の関係であり、空母を悪い上司だと考えてしまうのかも。
あとは海軍や海兵隊にいた人から空母にかんする話を聞けるのも、偏見がない原因かも。日本はあまり戦争の兵器についての話はしないし、アメリカほど大規模な空母は見かけませんから、実情も分かりません。というより平和を誓った国なのだから、軍隊の事情など分からなくても当然かも。
そして、最初はアメリカでも空母と飛行機の関係は、日本人がいだいた感情と同じものがあったかもしれません。太平洋戦争での各地の島や海岸での戦闘では、海軍が飛行機による空爆や軍艦による艦砲射撃をしたあとで海兵隊が上陸しますが、海兵隊には「前線で戦ってるのは自分たちだ、海軍のほうが安全だ。対等なパートナーとは思えない。」という意識があったそうです。ですから飛行機のパイロットたちも最初は不満があって、それを解決して現在の状態になったのかも。
もちろん空母が人気がない理由は他にもあると思います。日本は第二次大戦でも大鑑巨砲主義で、空母による機動作戦は序盤での成功以外はあまり語られません。そのせいかフィクションでも戦艦の活躍ばかりが描かれ、空母の活躍はあまり描かれません。そのためか「空母が飛行機を送り出す手間をかけるなら、戦艦から大砲なりミサイルなり撃って倒すほうが早いんじゃない?」と思ってしまいます。
しかし空母の活躍を描いた意欲作もあったのです。宇宙空母ブルーノア。時期としては宇宙戦艦ヤマト2(映画の「さらば~」と同じ始まり方で、より生存者が多い結末になったテレビ作品)が終了し次の作品に向けて準備中だったころの作品です。残念ながらヤマトほどの知名度にはならなかったものの、独特の魅力があります。
他にも空母的な感覚ということでは、ガンダムのホワイトベースもモビルスーツを送り出す空母と考えることも出来ますし、マクロスも戦闘機が変形するメカを送り出す母艦でもありますね。意外なところでは、ヤッターマンもメインのメカでは勝利できず小型メカの群れを送り出して敵メカを倒しますが、あれは空母の戦法といえるでしょう。日本にも空母的な存在はちゃんとあったのです。
ブルーノアにかんしては、もうちょっと話したいですが、主題についてはうまくまとまったので、今回はここまでにしておきます。
前回ちょっと話した「宇宙空母ブルーノア」について、思い出とか感心したことを話します。知らなかったかたは「そういう物語があったのか」というかんじで聞いていただければ、さいわいです。
宇宙空母といっても、すでに地球が悪の星人ゴドムに侵略されているので地球上で奴らを倒す必要があるうえ、宇宙を飛ぶための装置が離れた場所にあるため、そこへ取りに行くための航海をしながら敵と闘う展開であり、ほとんど海洋冒険モノです。
宇宙空母なのになかなか宇宙に行かないことに不満だった視聴者もいたでしょうけど、千葉県の小湊鉄道も、太平洋岸にある安房小湊まで路線をのばすつもりで名づけてますし、京成電鉄も成田まで線路が延びてないうちから、東京ー成田をイメージして京成と名乗ってました。だから宇宙をめざす空母が「宇宙空母」を名乗ってもいいのではないでしょうか。
空母というと、飛行機をたくさん甲板に載せて真ん中に滑走路のようなもの(実際にはカタパルトで発進し、あれは帰艦するときに使うらしい)があるイメージですが、ブルーノアは戦艦の左右に巨大な空母甲板があり、左右から飛行機が発進・帰艦します。飛行機は甲板には並べず収容してあります。真ん中には主砲やビーム砲など自力で戦闘をするための装備が充実しており「飛行機を前線に送り出すだけ、自分では戦わず命をかけるのは送り出された飛行機だ」という前回の批判を見事にかわしてます。それどころか、出撃する飛行機に艦橋の乗組員たちが敬礼する場面があり、空母と艦載機が対等な関係であることがわかります。なお自力の戦闘力を持った空母は、現実にも旧日本海軍を含めて作られたようですが、両方の長所をあわせ持つはずがどちらも中途半端に終わってしまい、活躍できなかったと聞いてます。
さらにブルーノアは、艦尾水上部に戦闘ヘリが、艦首海中部に潜水艦がついており、海岸から離れた箇所や海底の狭い場所ではそれらを行動させることが可能で、さらに開いてた本を閉じるようなかんじで、左右の飛行甲板を閉じて巨大な潜水艦形態になることも可能です。さまざまな状況に対応できる万能空母といえます。
ヤマトの波動砲のような超破壊兵器はないのかって?ありますよ。艦首水上部が開くとビーム発射口があり、反陽子砲と呼ばれます。ただし発射後にエネルギーを再充電するため10分間動けなくなることに対し「その間に敵が攻撃したらどうする?」と子供心に疑問でした。
子供の頃に見たときは、すでにヤマトの古代がしっかりした人物になってたのに対し、潜水艦クルーの主人公が未熟でたよりなく感じたことも多かったです。武器にかんしても、どこにどんな武器があるのかよく分からなかったけど、これはヤマトほど親切な図解が児童書や学習雑誌でされなかったからでしょう。
戦闘も何をしてるのか分かりづらい、今ではよくおぼえてない部分もありますが、それはヤマトが第二次大戦の艦隊戦を再現してたのに対し、ブルーノアは放送当時の最新戦術をしてたからと、あとになって知りました。日本は戦争を放棄した国ですから、二次大戦までは歴史の勉強の延長で知ることができても、最新の戦闘など知ることはできないのです。ウルトラシリーズの各防衛隊だって、怪獣が街中で暴れてるところに「ナパーム弾」と呼ぶ爆弾を投下してました(町が大火災になるんじゃない?)。おそらくベトナム戦争のニュースから「最新の強力な爆弾のようだ。」と思って「現時点の一番強力な爆弾」という意味で使ってたのでしょうね。
舞台になったのは2052年。D.C.ⅡP.S.の3年前であり、ヤマトがイスカンダルに行くより150年近く前です。ヤマトの後期シリーズ作品には同名の艦も登場しており、これは同じ艦が修理を繰り返しながら使用されていたといううわさも。
あとから聞いたのですが、日本のアニメでは初めて起動エレベーターが登場した作品で(ただし敵が設置した)、場所は放送直前にキリバスとして独立したばかりのギルバート諸島。太平洋戦争の日米の激戦地・タラワがある場所で、その100年後に地球人とゴドムによる激戦があったとは、おどろきました。なおブルーノアはゴドムが侵略する前からつくってましたが、将来に宇宙に作った植民地が反乱を起こしたときのためだったとのこと。まだガンダムがなかったころから、ジオン公国のような存在を想定してたことに。どこまでも時代を先取りしてたのですね。物語の内容を理解できるようになってからもう一度見たかった。
昔の記憶をたどって思い出したり、いろいろ調べるのは昔の時代にタイムスリップしたみたいでした。でも昔をなつかしむだけだと進歩がないので、調べたことは今を充実させたり未来を明るくするアイデアに活用したいですね。ブルーノアも「地球の未来」(劇中の音声認識コードより)のための艦だったのですから、私たちも未来へ航海しなくては。
『プリティーリズム・レインボーライブ』のラストエピソードで、プリズムワールドから来たキャラ・りんねちゃん(こちらにイラストあり)は、他の世界に「プリズムのきらめき」を伝えるために旅立っていきました。このように「異世界から来て主人公たちと交流した存在が、他の世界で同じ使命をはたすために旅立つ」形式のラストをもつ作品で印象に残っているのが『超電子バイオマン』です。
スーパー戦隊シリーズの1つですが、タイトルに「戦隊」も「ooジャー」もないので分かりづらいでしょうね。しかも、こういうタイトルですが電子工学ともバイオテクノロジーとも関係ない内容です。はっきりいって最先端科学っぽい名前を適当につけたとしか。戦士の名前も「色&ナンバー」になっていて、例としてグリーンは序列が2番目なので、グリーンツー。「あれ、2番目はブルーじゃないの?」と思うでしょうが、3番目なのです。名前は「ブルースリー」はっきりいって、アクション映画の俳優の名前にひっかけたダジャレをやりたかっただけ、そのためにブルー・イエロー・グリーンの序列をくずしてグリーン・ブルー・イエローにした、とんでもない話ですね。
他にも独特の部分として、悪の首領が怪物ではなく人間の科学者(途中でメカに改造したけど)、等身大で戦う「怪人」にあたるものがレギュラーの下級幹部であり、そのため殺さないという独特な部分がありました。あと、この作品が初めての、女性2人の戦隊であり、女性同士の会話ができることや、活発系とお嬢さま系などの使い分けが可能なため、のちの作品でも定番になっていきます。
印象深い点を話すと、私が初めて「良心回路」を知った作品でした。悪のメカを正義側にさせる装置があったとは、おどろきでした。もちろんそれ以前にも、登場した作品はありましたが、私がそれらを見たのはずっとあとでしたから。悪のライバルキャラもすでに他作品にいたものの、強く印象づけたのが、この作品に出ていたシルバでした。
主題歌に「闘うために選ばれたソルジャー」とあり、バイオ粒子を過去に浴びた者の子孫がなれるという設定。実際に志願したものの粒子の反応がないため拒否された者もいます。今では「本人の努力に関係なく決まるなど不公平だ」と言いたくなるところですが、子供の頃は「自分が選ばれる」という妙な自信があるもので、選民思想的な設定が気に入ったものです。やはり「他人と同じではいやだ」「他のヤツが入れない場所や団体がほしい」という気持ちがあるものです。
そのバイオ粒子に対抗するものとして「反バイオ粒子」が登場したこともありましたが、子供の頃は反粒子(質量が同じで電気の+-が違う粒子。+の電気を持つ陽電子など)なんて聞いたこともなかったので、「半バイオ粒子」だと思ってました。六神合体ゴッドマーズの反陽子エネルギーも「太陽エネルギー」だと思ってたし。ブルーノアに反陽子砲が出てきたのはすっかり忘れていました。
戦隊には、妖精や宇宙人などが力をくれるタイプ(キョウリュウジャー、デンジマンなど)と、世間での評価がある大人が指導者になるタイプ(ゴーバスターズ、サンバルカンなど)がありますが、バイオマンは前者。宇宙から来たロボット少年のピーポが協力者です。そのピーポは最終回で、敵を全滅させたあとに「他の星を守りに行く」と言って旅立ちます。しかし美しい星・地球(主題歌にも「宇宙の青いエメラルド」と歌われている)と、そこで出会った仲間たちのことは忘れない、といった感じでした。
りんねちゃんも、本来ならば救った世界の思い出は忘れるはずなのですが、なるちゃんの口ぐせ「ハピなる」をつぶやいたことから、視聴者を含めたみんなとの思い出はけっして忘れない、といった感じでした。私もわすれません、りんねちゃんとの日々を。
オールスターセレクションが終わった今、改めて言います。
りんねちゃん、さようなら。そして、ありがとう!
アニメやゲームでは、小学校・中学校・高校が舞台になることはあっても、大学が舞台になる作品は意外に少ないうえ、あってもあまりヒットしない気がします。主人公が大学生の場合はあっても、あまり大学が舞台にならずに自宅や街中が舞台になることが多く、さらに主人公ではなく女性キャラが実質的な主人公に見える作品もあります。
そこで、なぜ大学生ものが受けないのか、自分なりに考えてみました。
1つめは、大学進学率が思ったより少ないこと。
アニメやゲームを好きな人のなかには、アニメやCGの製作や美術を学ぶ専門学校や美術学校に行く場合もあり、さらに出演してみたいと思って声優養成所に行ってしまう人もいるでしょう。
私は知り合いに対して学歴や出身校をあまりたずねないので(どんなことを学んできたかは聞くことがある)自発的に話した人のみになりますが、大学に行ってる人はそれなりにいるものの、専門学校に行った人もかなりの数にのぼります。すでにやりたいことが決まってる人は、それに直結したことを学べますから。なお高校卒や高校中退の人に話を聞くと、社会に出たかったというより、大学にも専門学校にも(中退は高校すら)やりたいことがなかったという消極的な答えが返ってきました。ちょっと寂しい。
2つめは、大学は学部・学科ごとに講義の内容が分かれます。
高校には「普通科」がありそれが高校生のなかで多数派ですが、大学では「ふつう」は存在しません。どの学科にも特徴があり、たとえ文学部や工学部のようなよく耳にする学部でさえ、多数決では単独では勝てません。そのような状況だと、全員に共通する・共感するイベントが存在せず、マイナー・マニアックなものになります。高校でも農業科や美術科を舞台にした作品はあり、部活を中心にした作品では似たような感じになりますが(部活も過半数が所属する部なんてありませんからね)、それはもの珍しさ半分で見てた人が多く、共感しながら見ていた人は少数派でしょう。
3つめ。これは前とも重複しますが、各大学ごとにまるで環境がことなること。
大学は授業の場所であると同時に先生たちが研究するための機関であり、自由で独創的な研究のために大幅な自治と自由が認められています。そのため期末試験の時期が休みの前の大学もあれば休み明けの大学もあります。授業内容も、同じ「外国史」でも欧・米・中どこでもいい、先生の研究内容しだいです。体育も陸上やサッカーだけでなく水泳・スキー・ダンス・登山・ゴルフなど学校によって内容がちがいます。キャンパスの形態も都心のビルのなかにある大学もあれば広い土地をもつ大学も。このような状態で大多数が共感するものなどつくれません。(余談ですが、セールスマンや勧誘の人が、大学のことを聞きだしたあと「いやー、僕もooですよ」とヘラヘラ笑いながら言ってたら、そいつは嘘つきだと思って間違いないでしょう。今あげたようにどの専攻も少数派であり、同じ境遇の人間にそうそう会えるはずがないのです。同類なら信用するだろうという心理をついたセコイ策略です)
そして、これが決定的だと思うのが「自由すぎる」ことです。「無法」と言ってもいい。
大学生は、飲酒も喫煙も、自動車の運転もポルノ映像の鑑賞も許されています。でもこういうのは、違法だったからこそ面白かったのではないでしょうか。ファンタジーでは未成年ぽいキャラが飲酒する場面もありますが「いけないことしてる」と一瞬思うから面白いのであり、オッサンが飲酒するのを見てもつまらない。自動車を運転できない高校生だからこそ、電車やバス、ときには自転車で遠乗りやヒッチハイクなどをして遠方に行きますが、それゆえにカッコイイ車体の特急が登場したり、車窓を見ながら駅弁を食べたりできるのに(電車やヒッチハイクは知らない人との出会いがあり、他の乗客やドライバーから問題解決に役立つ情報を聞く展開もあり)、自動車で簡単に行ってしまったら面白くありません。エッチな場面だって、未成年の高校生が罪悪感とともに人目をしのんで行なうからドキドキするのであって、大学生が堂々とやってたら、動物的な汚らわしい行為にしか見えないと思うのは私だけでしょうか。
能の名人である世阿弥も「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と記しています。表向きは禁止されていることは美しく見えるのです。もしかしたら覚醒剤をやって罰せられた芸能人たちも、有名人ゆえに全てが許されるなかで、高校生の飲酒や性行為のような「許されざる行為を隠れて行なう」ことに惹かれて、禁断の行為に走ってしまったのかも。やはり「法的にはセーフだけど道徳的にはアウト」というものを作っておくほうがいいようです。高校まではそれが多い、でも大学生は一気に少なくなるのです、だからつまらない。
「自由すぎる」からつまらない、にかんしては、戦闘ものでも起こる現象のようです。「仮面ライダーBLACK RX」では主人公のライダーはバイクだけではなく自動車も持ち、それは水中や地底も走行可能、主人公もパワー&重装甲タイプやスピード&超能力タイプに再変身してほとんどなんでも出来てしまうことに、オールドファンからは批判も多かったと聞いています(現在の仮面ライダーでは当たり前になったものも多いですが。昔のライダーは能力に限界がある代わりに、それゆえピンチになったときに先輩ライダーが助けに来て共演するのも楽しみだったといえる)。「マジンガーZは大好きだったけど、グレートマジンガーは強すぎるというか、感情移入できなかった」というアニメ誌の評論を読んだこともあります。グレートは追加装備なしで空を飛べるし技も強力、私は好きですが、でもそれが不満というのも分かります。空を飛べない・マシンがない・パンチやキックのみで闘うヒーローが好きな人は、空を飛べる・車や飛行機やロボがある・ミサイルや剣など武器がある・光線技や超能力があるヒーローがきらいなのも批判できません。それは自由すぎる大学生よりも、制限があるなかで知恵をしぼりながらさまざまな出来事を体験していく小学生・中学生・高校生の主人公のほうが好きなのと同じでしょう。
あと、社会人についても同じことが言えると思うのです。マンガに登場する会社員って、エアコンの効いたオフィスで書類やパソコンを使って仕事をしてる場面が多く、雑誌などでもスーツやパソコンの広告が出てたりしますが、実際にはもっと現場で労働してる人が多いはずです。接客や製造など。自由もさらに広がりますが、徹夜で飲み明かしたときには誰か叱ってほしい。でも上司と部下だと同じ社会人だし上司も酒飲むから説得力ないのです。お金も多くなり「大人買い」もしますが、やはり高校生の主人公(できればバイトしてない人)が少ない所持金の範囲で、何を買おうかどっちにしようか悩んだりする買い物のほうが、見てて楽しいです。
バイオハザードでも警察で使う武器の範囲内(ただしアメリカの)で闘うから楽しいのであり、軍隊の兵器をイベントではない通常バトルでザコ相手に使ったら面白くない。やはり制限があるなかでのやりくりのほうがいいと思います。
これからも私は、小学生・中学生・高校生の活躍を見ていくことでしょう。不完全で制限があって、でもそのなかで試行錯誤してがんばる主人公たちを。
この夏に「エリーのアトリエ ~ザールブルグの錬金術士2~」をプレイしてました。きっかけは、春にテレビで「エスカ&ロジーのアトリエ」を放送して、アトリエシリーズをやってみたいと思ったこと。そして夏はイベントも多くて、そのひとつのフリーマーケットで「エリー」を見つけたことです。
これはファンタジー世界の学生(錬金術を習うアカデミーの生徒)になり、錬金術でいろんなアイテムを作っていくのですが、参考になる本や道具(製作するアイテムによっては乳鉢や遠心分離機などが必要)を買うために町の人がほしがるアイテムを作って売却したり、材料集めのためにへき地に行くときには用心棒として冒険者(RPGでプレイヤーキャラになる戦士・僧侶・踊り子・魔法使いなど)を雇って小さな冒険をしたりもします。
とっても楽しいです。材料を調合して新たなアイテムを作るのは、バイオハザードのハーブ調合や3のみの弾薬調合、ディノクライシス(1作目)の蘇生薬や麻酔弾の調合、牧場物語の料理作りなどで、いつも本編攻略を忘れてやりまくってました。アイテム調合を本編にした作品、これはすばらしいです。ファンタジー世界の一般市民になる話はドラクエ4のトルネコ編でもありましたが、これも面白かったし。
カレンダーは9月1日から翌年の8月30日
(注)
までが1年で、1月1日になっても年が変わらない(9月に1年目から2年目に変わる)ので、月日の感覚が分からなくなる人もいるかも。これはヨーロッパ(ドイツ?)が舞台のため。さらに1月1日に新年を祝うイベントも、2月14日に男性キャラにチョコレートをあげるイベントも全然ありません。他のゲームでは異世界が舞台でも何らかの形であるのですが(牧場物語の「冬の感謝祭」など)、じゃあ現実とは全くちがうかというと、お盆の時期に夏祭りがあったりするから、わけが分からないよ(キュウべぇ風に)。
8月1日にコンテスト(学年末試験)がありますが、これは制限時間内に答えなくてはならないため、攻略本をカンニングすることは事実上不可能。脳でおぼえるしかありません。でも、まだ製作してないアイテムでも前回のプレイで覚えてれば答えられるのです。それで正解したときは時空の旅人の気分を味わえました。まどかマギカのほむらもこの要領でバッチリだったのでしょうね。
基本的にドイツ文化圏のようで、名称もドイツ風が多いかも。先生の名前にヘルミーナ(フランス語ならエレミオーネ、英語ならハーマイオニー)、究極の薬の名前にエレキシル(フランス語はエリクシール、英語はエリクサー。なお牧場物語では「エリ草」だった)とか。石炭を想像させる燃焼系鉱石がカノーネ岩ですが、これもドイツ語で「大砲」でしょう(大砲はフランス語だとカノーン、英語はキャノン。なおドイツ語のカノンは聖典。石炭のドイツ語はコーレ)。
エリーは入学試験のとき補欠合格だったことから、問題児扱いされることもあり、同級生から「先生が呼んでたけど何かやったの?」とか「売店で値切ったりしちゃダメだよ」といわれたりします。しかしプレイしだいで、学年末試験で1位をとるのもむずかしくはありません。新しく調合できるアイテムが出てきたら、材料を拾い集めて積極的に調合していくのです。私は3回クリアしましたが、いずれも先生に認められ、4年間学んだのちにマイスターランクに進学して、2年間プレイ期間を延長しています。
劇中で同級生のイケメンくんが「錬金術は進歩のためなら武器に使っていいものだろうか。スローペースでも平和目的のみにすべきではないか」と悩むシーンがありましたが、プレイ中に原爆記念日があっただけに、印象に残りました。一見なにげない会話のようですが、ベストエンディングのルートでは前作の主人公であるマリーから「錬金術って何だと思う?」と問いかけられます。この命題こそが、この物語の最大のキーワードです。
主人公エリーの言うように、錬金術は一般には「金を作り出すこと」といわれています。「不老長寿(もしくは永遠の命)を実現すること」と書いてある本もあります。他の作品では(イケメンくんの憂慮どおりに)戦いの手段になってしまったものもあるようです。しかし、そうではありません。無限の富、永遠の若さ、究極の大量破壊兵器、そんなものをつくるために錬金術があるのではありません。もちろん現実世界の科学も。
最終的には、錬金術とは、「夢」
(注)
であるという結論を導き出しました。あいまいな結論だと思う人もいるでしょうけど、私は感動しました。夢というのは大切なものなのです。私の大学でも、初代学園長が描いた「夢」という文字の色紙が受け継がれ、教育学の先生からコピーをいただきました。その「夢」の字は、「夕」の部分にもう1本ななめの線が入っている物で「他人より一つでも多くの夢を持ち、多くの夢を実現せよ」という意味だそうです。
今まで多くの夢を実現させてきました。このサイト設置もかつて夢だったことであり、自分の文章や絵をアップする技は、昔はものすごい特殊技術におもえました。まさに錬金術のように。それが実現したのを励みに、これからも夢のために、がんばっていきます。